実家の掃除の始め方

世間で話題になっているので、自分のやりかたを書いておく。
ただし片づけを拒まれるケースでの、初動のみの手法だ。


●本人に恥ずかしい思いをさせてはならない

今すぐ生死に関わるようなゴミ屋敷なら別だが、そこまでの緊急性がないなら、そろりそろりと始めるのが良い。
いきなり「散らかっている」「汚い」「早くどうにかしないと」というような発言は反発しか招かない。
いくら家族と言っても無礼であり侮辱だ。
まして相手には親としての立場がある。
自分のこととして考えても、例えば来訪した客から、そんなことを言われたらどう思うかと想像してみるといい。
ちなみに自分は家にきょうだいを呼び、茶や茶菓子を用意して戻ったら、勝手にガサゴソ掃除をされたことがある。
「えっ、何をしてるんだよ…」
「ここのホコリが気になってさ」
「やめてくれや! あとで自分でやるから!」
きょうだいという同列の身内なので、相手は気安い感覚なのだろう。
「手持無沙汰だからやってやんよ」くらいのものだ。
しかしやられる方としては「客扱いで茶とかいれてるのに、何してくれてんだよ!」となる。

 

●片付けたいのは誰なのか、を自覚する

家主が「必要ない」「やめてくれ」と言っているのだから、強引にやるのは良くない。
「不衛生なのは健康に悪い」「物が散らかっていると危険だ」「こんな状態では不便だ」などと正論を言っても、「大丈夫だから放っておいてくれ」となる。
実際「下手に触られるとモノの置き場がわからなくなる」などの理由もある。
まずは、片付けたいと思っているのが親ではなく「自分」であることを自覚せねばならない。
あくまでも自分の願望であることを見失わず「より快適に、安全に生活してほしい」ということを伝えねばならない。
また「子供の頃、自分の部屋の掃除をしてもらったり、掃除された風呂に入ったり、洗濯されたタオルを使っていたのだから、今度は自分がする番だ」などとも言った。
鬱陶しいかもしれないが、子供のわがままだと思って聞き入れてほしい」的なことも言った。
とにかく片付けたいのは「自分」なので、お願いする立場である。
それを相手のためだと言い成すのは筋違いも甚だしく、拒否られるのは当たり前だ。

 

●すぐには本腰を入れない

最初は座りながらやれるようなことをする。
リビングやダイニングのテーブル周りに放置されている紙類や雑貨などを簡単にまとめたり、普段使いのメガネや道具を磨いたり、並んだ小冊子を揃えたりしながら、軽く整理する程度がいい。
めくり忘れられているカレンダーをめくったり、ペンのインクの出をチェックしたり、物入れやリモコンを拭いたり。
親が「やめてくれ」と言い出すほどではない規模で、手近なところの掃除をする。
「これ昔からあるね」「いつ買ったの?便利?」などと雑談しながらだともっといい。
ギリギリで文句を言うほどは触られておらず、まぁ少しこざっぱりしたかも、というポジティブな印象を与えるようにする。
手近な物を整頓することと、雑貨を磨くことは、簡単な割にけっこうな効果がある。
「そのペンは、いまいち書きにくいんだ」とか「DMがすぐに溜まってね」というような話題もでてきて、あとで収納や配置に役立つ情報になる。

 

●少しずつ信頼を得ながら、活動範囲を拡大していく

初動以外は、故人の性格や生活スタイルにも拠るので省略する。
大事なのは「当人と話しながら作業して信頼してもらう」ことだ。
そこから「親に指図をしてもらう」状態まで持っていけると、こちらの活動の自由度も発言力も上がる。
明らかに捨てた方がいい古物などを「捨てない」と言われると「なんでやねん」と思うが、理由を詳しく聞き、思い入れに納得して「じゃぁ残そう」と言うと、他のものを「そっちはいいや」などと言って捨ててくれたりする。
また新品があるなら並べて見せたりすると、古物を捨てやすくなることもある。
なんなら「大事なら修理しようか」と言うと「そこまでしなくていい…まぁ捨てようか」となったりもする。
「使ってないけど新しいから捨てたくない」という場合は、「使う予定がなければ欲しい」などとねだると、あっさりくれたりする。
口先だけでなく、複数ある工具などを使いたいことがあり「借りたい」と言うと嬉しそうに選んで「返さなくていい」と言われる。
物の配置換えなども、当人の身長や腕力、体力、気力、利便性などをヒアリングしながら進めると受け入れられやすい。
その合間に、目立つものをピカピカに磨いたり、サビ取りしたり、染み抜きしたり、わかりやすくビジュアルを変えるようなことをすると、非常に受けがいい。
「なら、あれもしてもらえないか」とリクエストをしてくることもある。
本人に体力や気力があるならやりたいことがあるのだから、(多少言うことを聞かないといっても)一番遠慮せずに使える手足になることが理想だ。
ここで、親によっては偉そうになるタイプと、遠慮するタイプに分かれてくるが、うちの親は後者だった。
「帰省のたびに働かせて申し訳ない」と言うので、「あとで何か買ってもらうから」と言うと「ああ、そういう理由か。いいよいいよ」となって相殺される。
いくら金があっても外部のサービスを入れたがらない場合、親が快適で安全な環境で暮らしているという安心感は金で買えない。
家にあるものの歴史を振り返りながら、親と共同作業する時間も金では買えない。
世間的にも、世代的にも、モノの時代は終わった。
ただ親が過ごしたのは「モノの時代」だった。
たまにしか帰省しない子供より、長年傍にあった大事なものなのだ。
たとえ所有していること自体を忘れているようなものでも、急にゴミ扱いされたり、奪われるような宣言をされれば不安になる。
快適な環境になったとしても、否定され感や喪失感が上回るのでは本末転倒である。

 

●現実
親の気持ちに寄り添い、思いやりをもって、的な話に仕立てたが、親目線からすると、完全なる2歳児の駄々であったと思う。
足ダンしながら「掃除したいの!」「自分のうちが片付かなくてイライラするから実家でやりたいの!」「いいからちょっとでいいからやらせろ」と執拗に言い続けた結果、「昔から言い出したら聞かないから」「やらせないと黙らない」と疲弊して譲歩した感が強い。
しかし自分の家の惨状を具体的に話したことで共感を得られた面も大きい(と思うことにしている)。
少なくとも「うちは片付いているのに」などと言うよりはマシだろう。
リアルな話、広すぎてモノが多くなり管理が追いつかないだけで、実家の方が良好だった。
「『収納の工夫』段階に至れる幸福」を力説していたら同情された。